「何でも知ってるつもりでも、本当は知らないことがたーくさんあるんだよ。」
リリーフランキーさんのつくったアニメ、おでんくんのオープニングで言われるこの言葉。
かなり深い。
知らないこと。
昨日、ベランダに足を投げ出して、夕風に当たりながら暗くなっていく空をぼーっと眺めてハイボール飲んでたんだけど、隣の部屋の電気がパッとついた。
あ、いたんだ、出掛けてるのかと思った。
気づかれないように、無意識に息を潜めてみたりする。
別に悪いことはしてないのに妙に気まずくなる。
こっちは優雅な気分でハイボールとつまみだけど、隣は何をしているんだろう。
何年かここに住んでいるけれど、
隣のひとについてこのまま知らずに引っ越すかもしれない。
わたしの知らないところで、隣のひとの人生はいまも進んでいる。
出かける時には鼻歌を歌いながらだったり、結構陽気な人なんだろうということは知っている。
それ以上知りたいかと言われれば、知らなくてもいい。
わたしのことも、知ってほしいとも思わない。
だから、隣の世界を知らなくても、たいして悔しがることも悲しむこともない。
知りたいこと。
でもこれがもし、好きなひとだったらどうだろう。
何時に起きてるのかとか、テレビの音が聞こえたら何を見ているのか気になるし、鍵を閉める音がしたら、どこにいくのか気になって仕方なくなるだろう。
今なにをしていて、お昼ご飯はどんなものを食べて、週末はなにをするんだろう。
なにもかも知りたくなる。
半年までは全く知らない人だったのに、
知ってしまったらその人のことで頭がいっぱいになったり。
その人のことを知らなかったときの自分がどんなふうに過ごしてどんなことを考えていたかも忘れてしまうくらいになったりする。
相手をもっと知るだけでなく、自分のことを知ってほしい、と思ったりもする。
本当は、自分のことだけちゃんと知っていればいいのに、
自分以外の誰かを必死で知ろうとする。
いつの間にか主導権は相手になり、顔色をうかがい、気持ちを汲もうとする。
知らない人には絶対にこんな気持ちにはならないのに、
知ってしまうとこんな風になってしまったりする。
知ってること。
知ってる。
この一言で何でも片付いてしまう。
わたしって、人見知りなの。―知ってる。
わたしって、いつも気づくのが遅いの。―知ってる。
わたしは~って知ってる。
そうやって自己認識して、自分という性格がどんどん確立していく。
知ってる。
あなたってこういうところがあるよね、知ってる。
よかれわるかれ、知ってるよ、って誰かに言われるとなんだか安心する言葉。
だけど、時には決めつけの言葉にもなってしまう。
昔からそうなのわたし、知ってる。
知ってるの一言で、可能性が狭くなってしまうこともある。
知らない、知りたい、知ってほしい、知ってる。
「知っている」と「脳」の関係
知らないものは見えないし、知っているものはよく聞こえたりする。
人間の脳は、知っているか知らないかで世界が変わる。
脳には、網様体賦活系という部分があって、
ここが意識しているものを認識して視界にうつしたり、聞こえさせたりする。
つまり、知っていると見えて、知らないと見えないのだ。
たとえば、好きな人の苗字が入った病院やお店の看板をよく見つけたり、公園でお母さんが呼んでいる子どもの名前が片思いしている人の名前だったり。
これは単なる偶然ではなくて、
自分の脳が、「あ、それ知ってる!よくよく知ってる!」って反応しているからよく見つけられるし、パっと耳に入ってきたりするのだ。
ある意味、脳って単純。
二度あることは三度ある、という諺は、この脳の仕組みを表してるのかもしれない。
いいこともわるいことも、知っていると意識することで頻繁に起こるような気になるだけで、人生はプラスもマイナスも同時に存在している。
人生をうまいことするコツは、ここにあるのかもしれない( ◠‿◠ )