よく、運命の人とか赤い糸とかそういう話があるけど、
よく考えれば運命の人ってもう出会ってるんですよ。
わたしは、赤い糸も運命の人も信じてるタイプだけど、そういうんじゃなくて。
70億人いる地球規模で考えたとき、「運命の人」の定義ってかなり変わると思う。
お父さんお母さんだって運命の人だし、小学校同じクラスで隣の席だった子だって運命の人。
地球規模論(私が勝手に考えた)だと、出会う人=運命の人になる。
これがどういうことなのか、まずは一般的に言われる「運命の人」について.
赤い糸で結ばれている運命の人
この地球規模論の出会う人がみんな運命の人なら、属に言う「たった1人だけいる運命の人」はますます迷宮入りする。
だって、本当はわたしはオンナの人が好きかもしれないし(今のところダントツで男の人希望だけど笑)そうなると、運命の人の性別だって異性とは決めつけがたい。
国籍も決めつけられない。
高校時代に付き合っていた人とそのまま結婚する人だっているし、
結婚していたけど別れて次に出逢った人が運命の人だったっていう人もいる。
運命の人はもう出会っているかもしれないし、これからかもしれないし、いつ出会うのかは誰も知らない。
人によってタイミングはまちまちで、出会わないまま(気づかないまま)死んじゃうことだってある。
でも、それがわからないからこそ面白いし、毎日生きて人に出逢うのが楽しみになる。
そもそも、結果的に結婚したから運命の人だとも限らないし。
最後の最期までわからないのが赤い糸で結ばれている運命の人なんだと思う。
赤い糸の向こう側にたどり着くために
運命の人がいるならば、出会わずに(気づかずに)死んじゃうのはもったいない。
せっかく生まれてきたなら、運命の人に出逢いたい。
そう考えると、いろんな人に自分から出会いに行くことが最善の策だと行き着いた。
いろんな人に会って、いろんな人と話して、いろんな人がいることを知って、そこでだんだん、赤い糸の先が見えてくるし、からまりもほどけてくる。
ゆるーく繋がってたものが、ピンと張って、その引力で出会える。
なんかそんな感じがする。
でも、
「赤い糸は自分で結ぶのよ!」
昔、仕事で数日間一緒だった同世代の女の子に言われたことがあった。
その子はすでに結婚していて、しかも10個くらい年上の旦那さん。
考え方も大人だし、すごいなーと思ってたけど、ぼけーっとしていたわたしに喝を入れるために言ってくれた言葉が今でも心につっかえている。
自分で結ぶのか・・・めんどくせ。
と思ってしまったから。(笑)
勝手に運命の人が決まってて、出会ったときにわかる的なオートマチックシステムを期待していただけに、いっきにやる気が失せてきた。
だって傷つきたくないじゃん。
負けると分かっていて戦う人なんていないでしょ。
かなりの傷を負うというのに。
そうやって恋愛から遠ざかっている人多いんじゃないかね。
人のこと言えんがな。(゚∀゚)
でも、運命の人に出逢うには、時には戦に出ることも必要なのかも?
とりま、出会いまくる、というのが最終的な結論。いまのところね。
数撃てば当たる的な。
新婚さんいらっしゃいで毎回思うこと
あの番組、たまに見るけどすごく好き。
カナリ現実的な人たちが出てくるから、結婚についてのいろんな妄想を見事に打ち砕いてくれる。
出会い系で出会ったとか、適当に友達に紹介してもらったとか。
運命の出会いなんてほど遠いものばかり。
結婚に力みすぎているのを思い知らされる。
でも、40年、50年と一緒にいるってかなり力むでしょ、普通。
おかんとおとん見てみなよ、結婚できてしあわせ~♡なんて言ってるのみたことない。(思ってはいるのかもしれないけど)
だからか、イマイチ結婚することがとってもいいことには思えない。
姑問題とか、こどもの世話で自分の時間がなくなるとか、母親があまりしあわせそうに見えなかったから、そう思ってしまうのかもしれないけれど・・・。
お母さんってかわいそうなものなんだ、ってわたしの心のどこかにレッテルが貼られてるらしい。
最近まわりが結婚ワードをよく出す、特に女の子だとある程度の年齢になると経験するはず。
けど、結婚がすべて、こどもをうむのがすべて、みたいな言い方に聞こえてあまりいい気はしない。
わたしにだって、やりたいことはあるし、死ぬまでに行きたい100選みたいなのだってあるし、夢だってある。
それを結婚=しあわせの終着点にされると・・・。
あたしの人生をなんだと思ってんだ。
複雑なきもちになる。
わたしはオンナだけど、もちろんこどもを産む機械ではない。
とか言いつつ、結婚式にはこんなことがしたーい♡とか妄想はする。
結婚式はしたい、いますぐにでも、式ね、あくまでも。(笑)
自分がずっと同じ人を好きでいつづけられる自信がないのと、
ずっと好きでいてもらえる自信がないのと、
帰ったらいつも同じ人がいる(言い方)と思うと、うーん・・・とも思うし、
でもね、旦那さんっていう存在がいたらどんなにしあわせかなとも考えたりはする、たまにね。
ママって呼んでくれる人がいたら、人生とってもしあわせなのかもと思ったりもする。
こんなわたしでも見捨てずにそばにいてくれる人、「運命の人」が、この世のどこかにいるんだと思うと、それだけでなんかちょっと楽しみになってくる。(私は赤い糸を信じてるからね)
新婚さんいらっしゃいは、こんなわたしの妄想や不安やいろんな矛盾を、
いっきにリセットして現実世界に戻してくれる。
だから、見てる。
あえて、たまにしか見ない。
もう一つの運命の人の定義
赤い糸で結ばれている系からいったんはなれて運命の人について考えると、
運命の人っていうのは、
自分が生まれてから死ぬまでに出会うすべての人のことだと思えてくる。
70億人近いひとが今日も生まれたり死んだりしている。
そんな中で、日本に生きていて、この小さな部屋でカタカタ文章書いてるわたしというひとりの人間が、70億人の人に会おうと思ったら今世じゃ時間が足りない。
わたしが生きているうちに出会える人って限られている。
だからこそ、たとえ誰かの紹介とか故意的とも思われるような出会いだとしても、出会っただけでもう「運命の人」にあてはまる。
自分以外の人間に出逢うというのは、なにかしら個人的プチカルチャーショックを受けるものだから。
食生活とか、くしゃみの仕方とか、どんなささいなことでも。
この文章を読んで、「ああこんな風に考える人もいるんだ」って思うだけで、もうこれは立派な影響を受けているということになる。
そして、これを読んでいるということは間接的だけどわたしと出会っている。
そんな風に考えていくと、人って知らないうちに出逢ってて、知らないうちに繋がってることになる。
顔を突き合わせて出会うことが出会いのすべてじゃない。
運命の人にたくさん出会えるようになったのも、ネットのおかげさまさま。
今日も読んでくれてありがとう。